stelo*yoco

アートで呼吸する日常

無精の果て

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「 初心( ういごころ )」

初心=しょしん。と読めば?
はじめに 思い立った 決心のコト。

初心=うぶ。と読めば?
世間ズレ していないコト。

初心=ういごころ。と読めば
汚れのない 心のコト。

「うい」「うぶ」は どちらも
「生み」「産む」といった 生命の誕生に 由来する。

実際に 生まれるのは 一生に一度 だ。

だけど。細胞は 刻々と 生まれ変わって
だから。ささやかな 生まれ変わりを 毎日
くり返す。くり返す。

生まれたばかりの
まっさらな 心で 観れば?
見えなかった 何か。見失っていた 何か が
観えるかも 解らない。

「 初心(しょしん)忘るべからず 」も 大切だ。けれど
「 初心( ういごころ )」を失うのは もっと。
こわがって & 失わないでいたい。

「 初心 」= 「 ? 」
どう 読むかは 自分次第だ ね。






「 三拍子( さんびょうし )」

一、二、三 。 一、二、三 と。三拍を単位にしたリズム。

音楽用語の 三拍子を 思い浮かべた人も 多いはず。
ここでいう「 拍子 」は、だけど。
能楽用語の 楽器のコト。

邦楽のジャンルの一つ 能の「 お囃子( おはやし )」で
笛と 小鼓と 大鼓と 太鼓で 演奏される 四つの楽器が 揃った
「 四拍子( しびょうし )」が あるけれど。
演目によって 太鼓をのぞいた 「 三拍子 」で 演奏することもある。

この流れから。

お囃子の三拍子が揃うコトを 演奏に必要な
条件が揃ったというコト( 意味 )に成って。
それが 今は
他の世界(分野)でも。

「 三拍子( さんびょうし )が 揃った 」と なった模様。

さて。自分の「 三拍子( さんびょうし )」は 何だろう。
そして。揃ったら どんな景色が 観られるだろう。

わくわくが 止まらない。






「 捨て色( すていろ )」

一つの色を ひときわ( 一際 )鮮やかに 魅せるため
印象づけるために使う 目立たない色のコトを
ベーシックカラーといって 日本語では コレを
「 捨て色( すていろ )」と呼ぶ。

すべての色が 自己主張してしまっては
お互いの 魅力を 消してしまう。

どんな世界でも それぞれの 性質( 性格 )と
特徴などに 寄り添って 役割を 知るコト
それを 忘れては せっかくの魅力も 台無しだ。

ただ。

目立つ色に比べると 気づきにくいだろう とは思う。
けれど。本来の「 捨て色( すていろ )」は
捨てたように さり気なく 在っても 実は。
とても必要な色だし、無くてはならない色。だ。

つまり。必要ない色は 一つとして 無い。






「 優形(やさがた)」

気だて や 姿と そして 振る舞いが やさしい。
この やさしいの語源は 大きく分けて 二つの説がある模様。

一つは「 痩す( やす )」。
身も痩せるほどに 心遣いをする様。

もう一つは「 止す( やす )」。
「 安らか 」「 休む 」といった 停止状態のような様。

言葉の由来は あちらの方へ 置き去りにして
優しさって 何処から やって来るのだろう。

痩せるほど 気遣いをされては 居心地が 悪い。
優しさが 生まれる場所は 安らかな心が あるトコロ。
ゆとりを亡くしているときほど 優しくできないのも
また。自然なコトだろうと思う。だから。
イロイロな 安らかなる場所が 在るとイイって 思うよ。






「 木守柿( きもりがき )」

収穫のとき 柿は すべてを取らない。
地方によって 残す数は イロイロ だけど
木の先端の方に 少しだけ 残す風習のようだ。

理由もイロイロ。
鳥にあげるため とか。来年も豊作を と 祈りを込めていたり。
神( 自然 )に 捧げるため だったりと イロイロだ。

残された柿が 木を守っているわけでは 無いとしても
それでも。まばらな葉の 木の 先端で
秋の風に吹かれている その光景は 言葉にならない
何か 惹かれて 奪われる。

誰かの 鳥への思いやりが 回り回って 自然を 潤す。

「 木守柿( きもりがき )」という言葉が 在るからこそ。
自然を守ってきた 先人からの 願いが 営みが
心を動すのかも 解らない。

そして。今年の秋はココ
「 一( いち )」と 名のつく 遊び場に
あらゆる地方から 柿が 届いた。そして。

11月22日は 友人が。
柿を使った 大人の菓子を 披露する。
それは それは 美しい景色で 見惚れた。

柿の皮を あれほど美しく剥く人を 私は 知らない。

メキシコ原産の 珈琲リキュールの 香りづけに
バニラと 月桂と その他にも イロイロな甘い におい。と
柿の まるでゼリーのような 透明な 艶めいた輝きに
一度で 済ませれば善いモノを。 幾度も 幾度も。
おかわりをした 偶蹄に 恥を知るほか 無く。私ったら!

柿だけでも 無限に 遊べそうで 心が騒がしい。






「 暦( こよみ )」

日を数えていただけのころ。

明治五年( 1872年 )の 11月9日に
太陽暦を採用すると発表されたらしい。そして。
この同じ年の 1872年11月3日が 翌年 明治六年の
一月一日となった。

それまで使われていた暦は 正確には「 太陰太陽暦 」。
飛鳥時代に 中国から伝わって
江戸時代に 日本人の手で 改暦されながら 使われてきたらしい。
それは。月の周期を 基本にする 太陰暦に 季節との誤差が
出ないように 「 閏月(うるうづき)」を 入れたりしながら
工夫を 加えてきた模様。

「 日を読む 」と描いて「 日読み( かよみ )」。
この 読み は 数えるというコト。暦の語源だ。

数字と にらめっこ?するような デジタル化された日常で
ふと思うのは。
「 日( 太陽 )は昇り、また沈む 」の くり返しなのに。
昇る太陽を 一つ一つ 数えていた時代も 確かに あったはずなのに。
どうして こんなにも 忙しくなってしまったのだろうと。

日を数えていただけのころ。

何のために 都会から戻っただろう。私は
ちっとも 出来ていないよ。いったい今は 何日だろうか。






「 天衣無縫( てんいむほう )」

天女の衣には縫い目が無い。

技巧を凝らさなくても そのままで完成された作品を
「 天衣無縫( てんいむほう )」と
だから 人は呼ぶようになった模様。

天才的な芸術家の作品が だけじゃなく。たとえば。
麻雀でも 配られたとき 何もしなくても 揃った無敵なる手がある。
まさに「 天衣無縫( てんいむほう )」だ。

近ごろは
同じような意味で「天真爛漫(てんしんらんまん)」とも。

「天真」=自然なまま飾り気が無いコト。
「爛漫」=純真で無邪気な人柄で光り輝く様子。

天才肌の人は「天真爛漫(てんしんらんまん)」なる人が
多いようで。そんなふうになった模様。

「天真爛漫(てんしんらんまん)」に振る舞うと
「 天衣無縫( てんいむほう )」なる作品が出来る?

ココ 「 一( いち )」と 名のつく遊び場では
訪れる人すべて 自由に振る舞える 空気であれ。

素晴らしい景色が 観たいもの。